#014 マイブーム




 40男は迷える子羊

 アメリカでは「40歳クライシス」という言葉があるそうだ。30歳成人説、に続いて何やら現代的な病を思わせるネーミングだが、迷えるアダルト・チルドレンたちの「大人になれない」悩みは、万国共通のものらしい。それでは、男女別ではどうか? と考えると、女性より男性の方が数倍深刻であるように思える。
 開き直って言うならば、女性はもとから社会のお荷物。キャリアがあれば、それで「意味のある」立派な女だが、意味がなくても楽しげにのうのうと生きていくことができる。しかし、男性というのは徹頭徹尾社会的な生き物。「(社会的に)意味がない」男性というのは、100の言い訳をつけたって、心許ない存在なのである。そこで彼らは悩んだり、地団太を踏んだり、自暴自棄になって社会から逸脱していったりする。
 最近観た二本の映画は、偶然にもどちらも40歳の男性が主人公だった。ウッディ・アレンの「セレブリティ」と、ヒュー・グラント主演の「アバウト・ア・ボーイ」だ。
 「セレブリティ」の主人公は、業界の端っこでベストセラー作家をめざす脚本家。彼は、同窓会で「みんなが風格たっぷりの大人になっているのに、自分だけ子供みたいに若い」ことに傷つき、16年連れ添った妻に一方的に離婚を言い渡し、新しい恋人を探しながら自らの創作に没頭する。独特のパッションを抱く彼のもとには、美人の女優の卵たちが群がってくる。しかし、彼は「まだ見ぬ究極の恋人」を探し続けるために、献身的な美女を次々と袖にする。裏切られた女は、彼の小説のスクリプトを、これ復讐とばかりに海へばら撒く・・・小説は未完のまま、彼はまたしても新しい恋人に去られ、実現不可能な「夢」ばかりが肥大していく・・・。未来を夢見る男は、早々に自分を見切ってしまった男より、確かに若々しく青年らしい。が、そこには「子供オトナ」の悲しい軽さがある。若い頃からヒロイズムとは無縁の男だったウッディ・アレンは、実に冷たく滑稽にこの40男を描いてみせるのだ。
 そして、「アバウト・ア・ボーイ」の ヒュー・グラントの情けなさ。父親が書いたヒット曲の印税で、40にして完璧な「すねかじり」を続ける息子を演じる彼は、今まで演じたどの優柔不断男よりリアルだ。働くことの厳しさも喜びも知らず、女性との付き合いは3週間しか続かないダメ男は、本気で好きになったシングルマザーにも「あなたの第一印象は、空っぽ」と言われる始末。もはや金持ちならば、働かなくてもよい時代ではないのだ。映画のメインテーマは、12歳のいじめられっ子の少年と彼の友情なのだが、それより何より「社会的に意味がない男はこんなにも寄る辺ない」という事実を、カメラは何度も観客につきつけてくるのだ。
 大人になる、ということは、自分の限界を知り、社会に適応して、分相応な幸福を得ること。「子供」という存在は、その点、親の無謀な夢のストッパーにもなる。子供によって制限された親の人生は決して味気ないものではなく、むしろ重みと深みを増したりする。「セレブリティ」「アバウト・ア・ボーイ」いずれも主人公に実の子供はないが、彼らが無意識のうちに求めているのは、「人生における重み」だ。「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ)とはよく言ったもの。しかし、曖昧に社会に容認されつつ、「子供のまんまの40歳」が世界的に蔓延している現実もあるのだろう。コメディ・タッチで語るしか逃げ道がないほど、根底にあるものの根深さを感じさせる「40男ムービー」ではあった。
 

 たけもとのばら、と読むことを最近知った。

 このお方、独特の雰囲気を醸し出すポートレイトに気を取られ、実際の作品を読んだことがなかったのだが・・・予想を裏切って(失礼)かなり崇高な世界観の持ち主である。最初に手にとったのは、文庫本になっていた「それいぬ」。まさかこれって、あの中原淳一先生の「それいゆ」のもじり・・・と思っていたら、やはり強烈にそうでした。「乙女」を崇拝し、その概念を緻密に緻密に定義づける野ばら氏の情熱は、ほとんど宗教家といっていい。それほど、彼は「乙女」に惚れて惚れて惚れ抜いている。なぜなら乙女とは彼自身、神様のいたずらで男子として生まれた、処女マリアの魂をもつ青年(中年?)が彼なのだ。
 偏愛的かつ断定的な乙女の美学を記したこのエッセイ集は、何と野ばら氏の処女作だったという。異様に達者な文章。その後、大量にリリースされた小説も読んでみなければ。青山出版社(昔、ここの編集の人に「第二の横森里香さんになりませんか?」って言われたことあるなぁ・・・)からカラフルな装丁で出版されているハードカバーをまとめ買いする・・・うむ。野ばら、小説家としてもかなりの唯美主義者とみた。
 心がふるえたのは、処女作「世界の終わりという名の雑貨店」(「ミシン」収録)だ。ライターを廃業して趣味の雑貨店を開く青年と、顔に痣を持つ少女との「恋愛」物語。文体は、「それいぬ」とおんなじ。慇懃な感じもするですますモノローグ体だ。しかし、一行たりとも目を離すことが出来ない。凄まじい引力をもつ言葉の連なりだ。昔好きだったヴィヴィアン・ウエストウッドがマニアックに語られているから・・・・ということもあるのだが、彼ほどここで「分身との愛」を完璧に描ききった作家もいないと思う。
「僕達は似通っているのではなく、同じものなのです。勿論、外見も違えば趣味だって少し異なり、好みの食べ物に猛者がるでしょう。しかし、僕達は同じ色をした、同じ質量の魂を有しているのです」「ええ、僕は魂というものの存在を信じています。それは心とは別のものなのです。心が間違っても魂は間違わない。心は嘘をつくけれども、魂は嘘をつくことを知らない」-------ああ、そうだったのか、と自分の過去の一番深刻で、一番短かった恋愛を思い出す。魂がどうしようもなくお互いのかけらを見つけあった瞬間、それは故郷よりも懐かしい愛の器となる。この小説には、唐突にセックス・シーンが描かれたりするのだが、もはや俗世間の性行為とは意味が違う。目に見えない魂と魂が引き合ったら、肉体だって即座に交接しあうしかないではないか。
私にも、そんな出会いが一度だけあった。でも「心は間違うもの」だから、お互いの狡猾さによって壊れてしまった。それを思い出して、少し泣いてしまいました。
 最後、悲劇として幕を閉じるこの小説に、号泣した乙女読者は数知れなかったという。
確かに、ここにあるのは究極の恋であり、究極のセックスだ。閉塞的で未熟な「乙女」という生き物を、俗を全て敵に回して美麗に描ききった野ばら氏に、わたしも一票入れたい。
 同じ水瓶座だし♪ ちなみに、この「世界の終わりという名の雑貨店」は、モデルの高橋、マリ子主演で映画化もされたらしい。機会があったら、見てみようっと。


 独特のシャベリと神のごとき博識、そしてドラキュラのよーに老いを知らないルックスで「コスメ界のカリスマ」として君臨するドクター大高。女性誌「ヴァンテーヌ」の連載で、鍼灸とかマッサージとかエステとか、突撃するたびコドモのようにイノセントな反応を見せてくれたのも記憶に新しいが、とにかく、彼の言うことを聞けば綺麗になれるのである。その点で、「化粧」から「生き様」を引き出した天才・齋藤薫女史に匹敵する「キング」といえる。なんてったって、老化のろの字もないご本人のお顔が保証書のようなものだし。
 ラジオ・トークを中心にコスメ談義をディープにまとめた「美容塾」(アスキー・コミュニケーションズ)は、手放せない知恵の泉である。喋り言葉で書かれているため、大高氏特許の必殺のコピーがワンサカ出てくる。「メイクも離乳食するの」「メイクは恋のアクセル ブレーキになってはいけないの」「女は夏に老ける」(ゾゾゾッッ)「ひとつ持てば人として ふたつ持てば女として 3つ持てば美女として!(洗顔料のこと)」などなど。30年以上化粧品メーカーとともに仕事をしていたエキスパートなだけに、アドバイスも実にプラクティカルだ。そして、メンタル面での応援も忘れない。「きれいになりたい」と願う女たちに、「それはとっても、大切なことよぉ」とエール&スマイルを送り、勇気を授けてくれる。美容も心理的効果が絶大なのだ。
 具体的な商品もたくさん登場するので、コスメおたくのわたしとしては、ますます散財に拍車がかかってしまう、困った一冊となった。一番心ひかれたのは「塗っていると、筋肉が正しい位置に引き上げられる」という、究極のリフティング・クリーム。名古屋のアイビオ化粧品の「ポアンジュ・フェイスリフトクリーム」(1万2千円)だ。早速電話で取り寄せました。東洋医学をベースに配合されたというこのクリーム。ツボ刺激とマッサージを併用しながら塗り続けると、一ヶ月で驚くほどの効果が見られるんだそう。とりあえず、これを書いている4月末日にスタートしてみましたが、一ヵ月後の効果は?
 女がこれほど自発的に学べるのも珍しい、つくづくスペシャルな「塾」。一度インタビューしてみたいお方である。。
 



小田島 久恵…1968年岩手県生まれ。多数の雑誌やウェブマガジンで、音楽・演劇・ダンス等の評論を執筆中!