たけもとのばら、と読むことを最近知った。
このお方、独特の雰囲気を醸し出すポートレイトに気を取られ、実際の作品を読んだことがなかったのだが・・・予想を裏切って(失礼)かなり崇高な世界観の持ち主である。最初に手にとったのは、文庫本になっていた「それいぬ」。まさかこれって、あの中原淳一先生の「それいゆ」のもじり・・・と思っていたら、やはり強烈にそうでした。「乙女」を崇拝し、その概念を緻密に緻密に定義づける野ばら氏の情熱は、ほとんど宗教家といっていい。それほど、彼は「乙女」に惚れて惚れて惚れ抜いている。なぜなら乙女とは彼自身、神様のいたずらで男子として生まれた、処女マリアの魂をもつ青年(中年?)が彼なのだ。
偏愛的かつ断定的な乙女の美学を記したこのエッセイ集は、何と野ばら氏の処女作だったという。異様に達者な文章。その後、大量にリリースされた小説も読んでみなければ。青山出版社(昔、ここの編集の人に「第二の横森里香さんになりませんか?」って言われたことあるなぁ・・・)からカラフルな装丁で出版されているハードカバーをまとめ買いする・・・うむ。野ばら、小説家としてもかなりの唯美主義者とみた。

心がふるえたのは、処女作「世界の終わりという名の雑貨店」(「ミシン」収録)だ。ライターを廃業して趣味の雑貨店を開く青年と、顔に痣を持つ少女との「恋愛」物語。文体は、「それいぬ」とおんなじ。慇懃な感じもするですますモノローグ体だ。しかし、一行たりとも目を離すことが出来ない。凄まじい引力をもつ言葉の連なりだ。昔好きだったヴィヴィアン・ウエストウッドがマニアックに語られているから・・・・ということもあるのだが、彼ほどここで「分身との愛」を完璧に描ききった作家もいないと思う。
「僕達は似通っているのではなく、同じものなのです。勿論、外見も違えば趣味だって少し異なり、好みの食べ物に猛者がるでしょう。しかし、僕達は同じ色をした、同じ質量の魂を有しているのです」「ええ、僕は魂というものの存在を信じています。それは心とは別のものなのです。心が間違っても魂は間違わない。心は嘘をつくけれども、魂は嘘をつくことを知らない」-------ああ、そうだったのか、と自分の過去の一番深刻で、一番短かった恋愛を思い出す。魂がどうしようもなくお互いのかけらを見つけあった瞬間、それは故郷よりも懐かしい愛の器となる。この小説には、唐突にセックス・シーンが描かれたりするのだが、もはや俗世間の性行為とは意味が違う。目に見えない魂と魂が引き合ったら、肉体だって即座に交接しあうしかないではないか。
私にも、そんな出会いが一度だけあった。でも「心は間違うもの」だから、お互いの狡猾さによって壊れてしまった。それを思い出して、少し泣いてしまいました。
最後、悲劇として幕を閉じるこの小説に、号泣した乙女読者は数知れなかったという。
確かに、ここにあるのは究極の恋であり、究極のセックスだ。閉塞的で未熟な「乙女」という生き物を、俗を全て敵に回して美麗に描ききった野ばら氏に、わたしも一票入れたい。
同じ水瓶座だし♪ ちなみに、この「世界の終わりという名の雑貨店」は、モデルの高橋、マリ子主演で映画化もされたらしい。機会があったら、見てみようっと。