その上品な文体と巧妙なレトリックで文筆家としての天性の才能を見せ付け、昨年の小説デビューから怒濤の勢いで作品を発表し続ける作家、嶽本野ばら。そのどれもがベストセラーとなり、各種媒体からのオファーも殺到。嶽本野ばらという存在に、ある種運命づけられたマイノリティは、この混沌とした時代の中で最早武器となりつつある。そんな彼のことを人は“乙女のカリスマ”と呼ぶ。中原淳一的少女世界や、ロリイタファッションなど、“ガーリー”などと軽々しく呼ぶことの出来ない所謂乙女文化とは一体何なのか?

嶽本野ばら氏への2時間に亙るロングインタビューを前・後編、2回に分けて掲載する。

六畳川 智人
(…前編より続く)




さて、そろそろ本題というか、「乙女」というキーワードについてお聞きしていきたいんですが、その前に、野ばらさんが『ジュニアそれいゆ』などの少女文化に惹かれるようになったのは、いつ頃なんですか。


結局ね、物心がついた時から男の子文化を受けつけなくて。一応子供の頃は、ウルトラマンとか仮面ライダーに興味はあったんだけど、なんか違和感があって。それより女の子と、リカちゃん人形で遊んでるほうが楽しいなぁと。男の子と交わらなければ迫害されちゃうので、プラモデル屋とかにも一緒に行ってたんだけど、何が面白いのか、どうも解んなくて。それが小学校高学年くらいの時に、テレビアニメの「キャンディ・キャンディ」が始まって、これだ!と。


!(笑)


それが、初めて少女世界っていうものに出会った衝撃というか。それから以降、別にそういう少女漫画にのめりこんだわけでもないんだけど。でもやっぱりファッション誌でも、それが役立たないんだけど『olive』を買ったりとかしてたので。


じゃあ「キャンディ・キャンディ」以降、ある種ふっきれた部分っていうのがあったんですか。


高校くらいになると、時代的にちょうどニューウェーブが台頭してきたっていうのもあって、趣味が多種多様でも、ある種の段階の中では非難されないという風潮があって。そこでわりとカミングアウトできるようになったというか。


じゃあ80年代の文化って、野ばらさんは嫌いじゃないんですよね。


うん。わりと80年代ニューウェーブ文化に憧れたというか、糸井重里さんがビックリハウスでやってた「変態よいこ」みたいな感じのものとか。


ああいうのがアリっていう時代は凄いですよね(笑)。


わりとね、ああいうマイノリティの評価みたいなものは非常に救われたというか。その前は校内暴力の時代でしょ。中学生の頃っていうのはヤンキー文化の台頭だから。




僕には最初、乙女、ロリイタ、ガーリーと、それぞれに相反する部分があって独立しているという図式があったんですけど。いろいろと話を聞いてると、乙女にはガーリーの要素もあるし、ロリイタもあるし、それぞれが微妙に絡み合ってて、これはこう!って結局言えないなぁと。ただ僕の中のある種の結論は、乙女……いわゆる野ばらさんを信奉する子たちは、ロリのファッション一つとっても、何だか、着ざるを得ない宿命のような部分を物凄く感じるんですね。それに比べてガーリーっていうのは、より広く一般の人達までが可愛いと思って単純に共感してくれちゃう。


今、乙女というキーワードがちょっと浸透しつつあって。「これって誰が使い始めたんだろうねぇ」って雑誌の人と言ってたら「いや野ばらさんですよ」「あ、そうか」と。


絶対そう思うなぁ。


でもガーリーであるとか乙女であるとかいう定義は、その本人たちもよく解ってないっていう。で、お洋服に関しては、アパレルのデザイナーとかもイマイチ掴めてないし、誰も解ってないもんですよ。だから彼女たちに、なんでそんな格好するのって聞いたら、可愛いからということしか出てこないというか。ロリイタだったら色々あって、人によれば精神論的なものもあるみたいですけど。


そうですね、本当にわからない。例えば今回、あるロリの女の子に一本、文章を書き上げてもらったんですよ。ヨーコちゃんっていう女の子なんですけど。おそらく野ばらさんからすれば、こういう子も当たり前のように存在するということが言わば自然に受け止められるとは思うんですけど、僕にはほんと不思議で、どういうことかというと、このヨーコちゃんという女の子は、ロリイタの格好もすれば、ガーリーの服装もするし、挙げ句はイベントコンパニオンもやっちゃうんですよね。なんかそういうのがね、余計に解らなくなって。




野ばらさん、あゆとかめっちゃ好きじゃないですか。あれってギャルでしょ。


うん。


僕は全然(乙女と)リンクしなかったんですね。まぁちょっとずつ女の子の話とか聞いてて、ファッションとして行く方向は違うけど、単純に「可愛くなりたい」っていう憧れの部分とかで共通してるのかなぁっていう・・・朧げな感じなんですけど。


あゆはね、僕も最初全然興味なくって、全く歌も聞いてなかったんだけど。でも今年の頭くらいなんじゃないかな、急にたまたま聞いてみてアレッと思って、どんどん深みに嵌まっていって。BBSとかでも、あゆを凄く好きな子もいる反面、やっぱりギャルのカリスマだから大嫌いという人もいて。


大変ですよね・・・。だってBBSでも色んな論争が起こるわけでしょう?手紙とか、嫌なものもあるでしょうね。例えば野ばらさんが『それいぬ』に書かれているようなことに「これ違うと思います!」みたいなのもあったりしますよね?


でもまぁ、手紙とかはそんなに反感みたいなものはないんだけども。でも凄く微妙なところで、やっぱり今まで誰にも解ってもらえなかった自分の気持ちを、的確に言い表してくれたことに対して、素直に喜べる人たちもいる反面、的確に表しているからこそ同族嫌悪のようなものを感じずにはいられないというひねくれた人たちも、いたりとかするので。


あぁ、なるほど。


だから本当は読みたくないんだけども、読んでしまって悔しい、どうしてくれるという手紙が来たりとかするので。


難しいですねぇ。


すごく難しい……。


でもこうやって「乙女のカリスマ」みたいに言われるわけじゃないですか。そう言われることに関して、野ばらさんはどうなんですか?


うーん。まぁ別にいいかなぁって感じなんだけど、でも別にカリスマとしての行動も言動も、大してやってはいないので。


あ、そういえば「ノバラー」って言葉があるんですよね。


「ノバラー」って言葉、あるみたいですね(笑)。いやそれでね、やっぱり僕の読者というかファンというか、僕とのスタンスというのが、カリスマだったら教祖と信者のような関係なんだけど、もっと近いような感じがあって。


そうですね。


キリスト教なんかで言うと、カトリックの場合は神父っていう、割と神に選ばれた下僕の長のような人がいて信者がいて、信者と神父の間っていうのは、ある種ヒエラルキーがある。それがプロテスタントの場合だと、牧師が神父に代わるんだけども、基本的に信者と同等の位置にいる、信者を束ねるための代表者みたいなところがあって。だから僕のやってるのは牧師的な作業なんだけどなぁって。だからカリスマとか言われるたびに、いやそんなもんじゃなくて、生徒会長っていう意味ぐらいのもんなのだよと(笑)。


でもこう「ノバラー」とか言われるとカリスマですよね、ノバラーにとっては。


でもほら、アムラーの場合だったら安室奈美恵はカリスマだったけど、シノラーの場合、篠原は別にカリスマではなかったわけだから。


ではそんな彼女たちが、野ばらさんを信奉することに対して、どんな風に思われますか?


僕はたぶん今まで、「こういうものが乙女であるので貴方も乙女になりましょう」とか、「乙女になりたい人は、こういうことをすれば乙女になれるから」というようなことを言ったことはなくて、僕は勝手にこう思っているのだが……という部分に共感する人たちがいて、というようなことで。最初乙女なんて言葉でエッセイを書きだしたりした時っていうのは、そんなにそのキーワードを重要視してなくて、半ばふざけていたんだけれども。


確実にこのキーワードは、野ばらさんからですよ。




前にバグマガ(※六畳川が編集長を務めるフリーペーパー)で書いてもらったコラムで印象的だったんですが、遂に雑誌『olive』で文章を書いたっていう、野ばらさんの喜びのコラムがあったじゃないですか。そのコラムの中で、『olive』が休刊したら世の中の少女たちが路頭に迷うだろうって書かれていて、それが休刊になっちゃいましたよね。そして最近またリニューアルされた。で、この新しくなった『olive』って、野ばらさん的にはどうですか?


ダメですね(笑)。


ダメですか(笑)。


一応まだ復刊して3号めくらいだから、見守ってはいたいと思うんだけど。何かが違うというか。


僕も見てて『olive』独特の世界っていうのが、なんか……。他にも、いわゆるガーリーって言われる雑誌がいろいろ出てきてるからかもしれないんですけど、違いが薄れてきたっていうか。


うん。


さっきの80年代の話に戻るかもしれないんですが、女の子文化ってものが認められた背景として、やっぱり『olive』って大きいかったわけですか?


うん、大きかったんだろうなぁ。で、『olive』の読者っていうのは真面目なんですよ。真面目で、実はちょっとダサいっていうのが『olive』の読者たちで。以前はそれに支えられていたから良かったんだけども。


あぁ、今ってダサくないんだ。


そう、お洒落にしようとしたのが間違いで。雑誌ってたぶん二通りあって、その雑誌に載ってるお洋服を見て実際にそのお洋服を買おうっていう……『cawaii』とかああいう雑誌はそうだと思うんだけど。そうじゃなく、そこに載ってるお洋服をいいなぁと思っても、自分にはアバンギャルドすぎて買えなかったり、高すぎて買えなかったり、それでも「こういう世界に憧れてしまうの!」って憧れの対象として買っちゃう雑誌っていうのがあって。『olive』なんかは、実用的になろうとしているぶん、違ってきているなぁと思って。




結局「乙女」っていうものをどう捉えたらいいのかが、曖昧で・・・。


それは誰も解っていなくて、皆がそれぞれに勘違いをしてしまうのは、ある種節操がないというか、整合性がないというか。ガーリーでもロリイタでも乙女でもそうなんだけども、それぞれのキーワード同士っていうのは、傍目から見てあんまりリンクしてないんですよ。例えばロリイタだったら、もちろんテディベアが好きとかは解るではないですか。或いは、ジョン・テニエルによる「不思議の国のアリス」が好きとかなら傍目から解るんだけども、その一方で金子國義のエロティックな絵に熱狂していたり。中原淳一を読んでるかと思ったら、なぜか「パタリロ」読んでたり。音楽も、ロリイタの子に何が好きなのって聞いたら、パンクかバロック音楽って言う(笑)。なんか全然違うじゃんって。


(笑)。


でも傍目から見ると戸惑っちゃうんだけども、実際ロリイタをやっていると凄く当然に存在していて、またどっちも同等にあって。パンクを聞いた後にクラシックを聞いても、全然それが違和感ないことで。そうなると、そういうものを気にする雑誌とかも、次に何をその子たちに与えたら喜んでもらえるのかが解らないんですよね。ロリイタの中では凄く意味があって、自然発生してきてチョイスしてきたものなんだけども、傍目から見てると、なぜそれをチョイスしたのかが解んないし、彼女たちに聞いても、これこれこうだからこれが好きなんだってことが言えないで、好きなんだからしょうがないとしか答えられなくて。その辺りを僕は半ば強引に、騙しているわけじゃないけれども巧妙なレトリックで、これこれこういう理由だから好きになるんだという……実はそれは嘘だったりするんだけど、そういうことを言ったりしちゃうから、ロリの子たちも「そうそう!」と思っちゃうんだけども。僕が展開する論理っていうのは、実は非常にいい加減な論理であって、あんまり意味はないんですよね。


論理付けするということに意味があるんですね。


根本的なことを手繰っていけば、ねじ曲げられたリビドーみたいなものがあるんだけども、でもそれがそこに通じると言ってしまうと、なんか凄く粗っぽすぎて。それだけではないものも凄く大きいので、そう言ってしまうのも抵抗がある。ロリイタ業界のデザイナーとかもね、皆凄く冷や冷やしてますよ。


そうみたいですね。


次に何を出したら受け入れられるのか予測不可能だから、こんなの出してみたらなぜか売れたとか。何年か前の「Victorian maiden」とかもまさにそれで。棺桶作ってみて、こんなもの十万円で誰が買うかと思ってたらバカ売れで(笑)。


バカ売れやったんですか(笑)?


たぶん五十体くらい作ったんだと思うんだけど、それがもうソールドアウトしたりしたから。


ホームページとか見てても、大概ソールドアウトになってますよね。新作で載ってるのに何で?みたいな。あれを出し続けるのは……。


単にフリルを多用してるだけでは売れないし。


そうですよね。ギャル系の子でも履けるやんっていうスカートがあったりしますよね。そういうものなんですよね。




なんか根本的な質問になるかもしれないんですけどね。ロリータの格好をする子たちが、例えば背後で全然違う話で笑ってるその笑い声が自分のことを笑ってる気がするとか、とにかくダサい格好するのがイヤで可愛くしたいからと、自分が可愛いと思うロリータの格好をするじゃないですか。でもそのロリータの格好を見て笑う人っているでしょ。そこの部分が、もひとつよく解らなくて。自分が納得できる可愛い格好だからいいっていうことなのかな……、笑われるっていう部分とか人の視線の部分とかが怖いんだろうなと思うのに、やっぱああいう格好したらよけいに人は見たりするじゃないですか。どういう意識なんだろ?っていう。


まぁ、それぞれにそれぞれのモチベーションがあってロリータに至るんだけども。よく新聞とか公のメディアは、派手な格好だからそれを変身願望の顕れ……ひとつのコスプレと同じような感じで捉えていて、記者は自分の中でそういう結論をある程度作って取材をしていて。ロリの子たちも、「そんな感じです」とか言うんだけども。でも彼女たちは、自分たちが大人に解ってもらえるなんてまったく思ってないから、変身願望って言われたら、違うんだけども「そうよそうよ」って適当に返事をしているだけで。実際に原宿の橋の上とかに立ってるコスプレの子たちは、普段ロリータだったりもするから被ってはいるんだけども、でも決して変身願望ではなくて。変身願望というよりも、本当の自分自身になるためにそういう格好をするんですよ。だからすごく、その可愛いお洋服と同化したいっていう感覚の方が近いと思うんだけどなぁ。だからロリータのお洋服って、お洋服であって、ある種お洋服でないというか。お洋服以上のものがあって。


よく鎧って言うじゃないですか。ああいうロリータの服に包まれることで、何も聞こえなくなったりするんですか。


そういうわけではなくて。ただ、なぜ鎧を着るのかというと、戦士として生まれてきたからで。戦士として生まれてきた者は、鎧を着なくては戦士として生きていけないのですね。


何となく解った・・・解らない(笑)。そう生まれてしまったってことなんですよね。


うん。こればっかりはね、そういう資質に生まれ持ってしまったとしか言い難いものがあるような気がして。だから興味があるとかないとか、そういう問題じゃなくて、ホモセクシャルとかと同じようなもので。もしかしたら一生気づかないまま過ごすのかもしれないけども、目覚めてしまったらそっちにしか行きようがないというか。


いわばサディズムとかと一緒だって書いてはりますよね。


普通、お洋服を着る時に、人からセクシーに見られたいからセクシーなお洋服を着たりとか、爽やかに見られたいから爽やかなのを着るんだけども。そうじゃなく、一番の対象者が自分であって、自分に認められるため……もう独りの自分が納得するために、こういうことをしてなきゃいけないっていうような感じじゃないかな。そうすると他人の価値観が全然入ってこなくなっちゃって。


そっかぁ。


でもロリの子ってね、皆ひどい目に遭ってるんですよ。派手な格好してるだけで、石投げられたりとか。大抵の普通の男の子からは、過剰すぎて気持ち悪いって敬遠されちゃって。道歩いてたり電車乗ってて寄ってくるのって変質者のオヤジとかで、そんな人っていうのはフリフリとかに反応しちゃうみたいで、いきなり拉致されそうになったりとか。そんなことは結構、皆経験していて、それでも。


着ざるを得ない。


そんなところがわりと特有かな。ガーリーになると、まぁそういうのはないですけど。面白いのが、こないだ大阪でも紀伊國屋のサイン会があったんだけども、紀伊國屋の書店員の女の子も4人くらいわざわざ休憩時間に並んでいて、その中の1人が「この紀伊國屋で働いてるんです」っていうんだけど、フリフリのロリの格好してて(笑)。「そんなロリの格好でどうやって働いてるの」って聞いたら、「今日は野ばらさんのサイン会だから。ちゃんとロリータで来ないと自分で納得できないから、仕事を休んでちゃんと朝からロリータで来ました」って言って。だから、そういうもんなんだろうなって思って。紀伊國屋で制服を来て働いてる時っていうのは自分じゃない自分で、ロリのお洋服を来てる時っていうのが本当の自分だから、ちゃんと本当の自分でサイン会に臨みたいっていう気持ちが。


可愛い(笑)。なんか純粋やなぁ、そういう部分では。


でも意地悪なんですよ。


なんですよねぇ。他人には嘘をつくけど、自分には嘘をつけない……。




今、実際にロリイタと呼ばれる子たちって、増えてると思います?


いや、増えてない。今、そういう子たちが取り沙汰されたりして、増えてるように見えるかもしれないけど、総数は基本的に変わらないと思ってて。ロリイタというものがなかった時代から、僕たちのような感覚であったり趣味趣向を持った者は、きっと昔々からいて。江戸時代もいただろうし、もっと昔の平安時代からいたのかもしれないけども、その絶対的な人数っていうのは変わらずに、そういう者たちが年々生まれ、そして死んでいき、その絶対数の増減っていうのはないと思うんだけども、これが時代の中でたまたま脚光を浴びる瞬間っていうのがあって。いつかまた脚光は浴びなくなっちゃうんだけど、でも僕たちはこれをやめるのかと言われると、絶対やめないし、このまま行くしかないので。


宿命ですね。


「世界の終わりという名の雑貨店」
2001年11月 渋谷シネパレスにて公開

濱田樹石 第一回監督作品
原作/嶽本野ばら「世界の終わりという名の雑貨店」(小学館刊「ミシン」より)
脚本/濱田樹石、鷲見剛一
撮影/大橋仁
出演/西島秀俊、高橋マリ子、真行寺君枝、益富信孝、川合千春、内田滋啓、加藤夏希、菊池亜衣、小泉絵美子、派谷恵美、清水ゆみ、太田瞳、長澤瞳、悠美、金守珍、絵沢萠子、森崎東、浦田賢一、松尾スズキ、名古屋章、今福将雄
製作/松竹株式会社・株式会社小学館
配給/松竹株式会社

現実とうまく折り合いがつけられないある種の業を背負った青年と少女の物語。そんな彼らはまるで双子。双子が恋をしたところで、そこにあるのは単なる悲劇でしかない。決して抜け道のない迷路に迷いこんだ彼らのゴールは迷路の入口。・・・いやさらなる迷路だろうか。

こんなにも切ない物語をそうとわかっていて見るのは、かなり辛い。しかし確かにそこには、儚くも美しい、ある一瞬の美の煌めきが焼き付けられている。美しいものを美しいと感じる感覚。この映画は一つの踏み絵になりえるかもしれない。(六畳川 智人)


Interview with novala takemoto
Interview and text by satojin rokujogawa

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